文科系学生のための物理学実験について

はじめに

物理学は基本法則を実験,観測で検証することにより成り立っています.物理 学では基本法則を理解すると同時に,なぜそれが正しいのかという根拠を理解 する必要があります.実験を行い,結果を求め,その意味を考察する過程を経験 しないと,「科学的事実」とは何であるか,そしてその限界はどこにあるのか, といった面を理解しにくいと思います.これは学問として非常に重要な側面で す.さらに,その理解が無いと自然科学を過度に信じたり,逆に極端に不信に なりがちです.

エネルギー問題,地球温暖化問題,ナノテクノロジー,電子通信機器,などの 現在重要な分野の多くに物理学が本質的に関わっています.文系理系に関わら ず,誰でも一社会人としてこのような分野に関連する判断を下さねばならない 場面に出会います.このような現在,自然科学を理解することの重要性は増し ています.

近年,受身型の講義に対して参加型の講義の重要性が強調され,新しい講義形 態も提唱されています.実験授業は従来から存在する参加型の講義の典型です. 自分で手を動かして,実験をしなければ何も始まりません.さらに,実験を行う ことにより抽象的に思われる物理の基本法則がどのように現実に反映されてい るか実感することができます.また,実験を行い結果を導き,理解することは充 実感もあり楽しい経験でもあります.

物理学実験の行われかた

慶應義塾大学では 1949 年より,実験を含んだ文系学生のための講義科目を開 講し続けています.その中での物理学実験の特徴について主な点をあげます.

  • 講義と実験は組になっていて,実験と講義は隔週ごとに行われます.講義,  実験ともに2コマ,3時間です.半期で3単位の科目です.

  • 自然科学の実験科目は選択科目です.文系学部では学生に自然科学系の科目 を 6 か 8 単位履修することを卒業の条件として課していますが,実験科目 を履修する必要は有りません.現状では,文系学生の 約 6〜7割が自然科学 の実験科目を履修しています.

  • 講義内容は講師によって大幅に異なります.学生は自分で履修する内容を選 択します.

  • 実験では,学生は実験時間内に実験をしながらレポートを書き終えます.そ れを提出し,質疑応答を受けて実験を終了とします.

  • 実験は題目を多く準備してあり,各講師が自分の講義内容に適した実験を採 用します.

  • 実験は通常 2人あるいは1人1組で行います.

文系学生のための実験の特性

文系学生の 1 年生から履修できる実験というと,簡単な実験,そしてレベル 的にいわば「低い」実験が想定されがちですが,そうである必要は全くありま せん.実際,行っている実験は古典力学の簡単な実験から量子力学の実験まで 様々です.理系学生に必要な 3,4 年での履修の前提となる基礎実験,また実 験テクニックを覚えるための実験は文系学生には必要ありません.物理の基本 的な概念を体験することができ,興味が湧く実験が理想的です.基本的な概念 さえ説明から理解できるのであれば,理系学生が高学年で扱う内容の実験でも 良いのです.最新のテーマでも古典的なテーマでも良いです.多少精度を犠牲 にしても,学生が実験の仕組みとそこに現れる物理現象を理解できる方が望ま しいです.精度を求めることや最新機材を用いることにより実験が「ブラック ボックス」となってしまうことは避けなければなりません.

我々の用意した実験は,多少講師の説明を要する場合もありますが,どれも全 ての学生が時間内に終えることができるものです.実験授業の困難さは,むし ろ実験の内容を学生がどうすれば理解できるかということです.実験自体は指 示通りに進めれば終わりますが,それだけでは結局は何をしていたか,また, それが物理学全体の中でどのような意味を持つかといったことは理解できませ ん.レポートを書く際に考える必要が自然と生じ,理解を助けます.そして,提出 時の質疑応答が理解には重要です. テキストの内容も細か過ぎては指示に従うだけになってしま います.逆に指示を大雑把にしすぎると実験が困難になりすぎてしまいます. さらに,講義で物理の基本的な考え方について学んでいなければ,理解しよう と思っても理解できるものではありません.

いわゆる「文系学生」の一つの特徴は理系教育を受けてきた学生から文系学生 として特化してきた学生まで幅広くいることです.実験を行う際はこの幅広い 層が興味を持って実施できるものでなければなりません.実験の経験がほとん ど無い学生でも時間内に終えられるものでなければなりません.逆に,理系の 教育を受けてきた学生でも面白いと感じる深さがなければなりません.これは, 実際に現場で実験を監督している際に講師が学生ごとに調整するのも重要です.

実験のテーマの開発について

このような点を考慮して実験テーマを開発するにおいて以下のような基準を考 慮しています.

  • 内容は物理的観点から興味深いものであるのか?
  • 内容は学生に理解できるのか?
  • 困難さは適切か?
  • 時間内に学生が終えることが可能か?
  • 学生が十分安全に行えるか?
  • コスト的に適切か?
  • スペース的に可能か?

実験を行う難易度は実験種目によって異なり,これはある程度意図的です.実 験の難易度は以下に数例あげるように様々な方法によって調整されています.

  • テキストでどこまで説明するか? 特に実験結果の例を含めるとかなり難易度 が下がります.
  • 実験準備をどこまでするか? 例えば機材を既にセットアップした状況で渡す など.準備をしすぎてしまうとブラックボックス化してしまい,学生は何を しているかを理解しにくくなります.
  • 教員がどこまで教えるか? 実験の進行状況により,必要だと思われる学生 にははっきりとしたヒントを与えたり,逆に自分で考える余裕がある学生に はあまり補助をしないようにしています.

実験の意図,実験で伝えたいポイント,また実験時間の制約などを考慮して実験 のバランスを取ります.

最後に

文系学生が実験を行うことは困難だということは有りません.今まで学生に接 してきて実験ができない学生はいません.実験を行うにあたって一番重要であ り,しかし困難でもあるのは実験でどのような物理法則を確かめたのかを理解す ることです.特に,実験を自動化しすぎてしまうと,ブラックボックスと化して しまい,実験は簡単に終わるが学生は何を行ったかわからない,という事態が生 じやすくなります.


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Last-modified: 2007-01-13 (土) 21:50:59 (807d)